山吹日記

趣味や日々の生活をまとめていきます。

MENU

朝霧に浮かぶ笑顔は祖母の愛

今週のお題「好きなお茶」

こんにちは!

今日は久しぶりに今週のお題について書いていこうと思います。

以前も書いた通り、私は社会人になるまでの22年間を実家で生活していた。 実家は2世帯住宅で、父方の祖父母が1階に住んでおり、私たち家族はその上の階で生活をしていた。この構造上、家の玄関を通る際には必ず祖父母の部屋の前の廊下を通ることになり、出かける際には祖父母の生活する居間の扉を開けて挨拶をしてから出かけるのが我が家の決まりのようになっていた。

初めて急須で淹れたお茶お飲んだのは小学生の頃だったと覚えている。 小学生の頃、小学校までバスで通っていた私は、友達と遊ばない日には決まって祖父母のいる居間に顔を出し、出してもらったお茶菓子を食べながら学校での色々な話をするのが習慣になっていた。

そしていつしか、急須で淹れたお茶も一緒に出るようになった。きっかけは、祖父がお茶を飲んでいる湯呑がヒスイ色であんまり綺麗で、その中に入っている澄んだ緑色の液体に心を奪われたからだった。

初めて緑茶を飲んだ時、最初に苦味を感じた後、爽やかな甘みを感じた。これまでも美味しく感じていた甘いまんじゅうや、少し塩辛い草加せんべいをより楽しめるようになった。

この日から、祖父が使っていた湯呑は私のものになった。小学校から帰ると一目散に居間に行き、ランドセルを放り投げてお茶を飲みながら色々な話をした。祖母はいつも笑顔だった。祖父は無口な人だったけれど、昔話をよくしてくれた。3人で笑いながら飲むお茶が大好きだった。

中学生になり、祖父と喧嘩をした時も居間には通っていた。祖父がいる時は立ち寄らなかったけれど、祖母とは相変わらず話していた。

喧嘩してから2週間ほど経ったある日、祖父がアケビを取ってきて私の前に置いた。「この前はごめん。」思えば、私はこの頃から人に謝るのが苦手だった。きっと祖父も同じなのだろう。きっかけを作ってくれたのだ。 それを見て祖母は微笑みながら「お茶淹れようね」と言って緑茶を出してくれた。初めて食べるアケビと一緒に飲んだお茶はお世辞にも合っているとはいえなかったけど、それ以上に和解できたことが嬉しくてたくさん飲んだ。

私が成人した後は、夕方頃からお茶を飲み、日が暮れたらそのまま酒を一緒に飲むことがあった。祖父は酔うと良く太平洋戦争中の話をしていた。疎開先であり、寺だった祖父の実家には、多くの子供が都会から疎開して来たという。東京大空襲で空が赤く燃えるのを、寺の屋根から見ていたと言う話は何度も聞いた。 祖母はそんな私たちを見ながら、「またそんな話してー。」と祖父をいなしていた。今思えば、もっとたくさんの話を聞いておけばよかったと悔いが残る。

半年後、祖父は死んだ。末期癌だった。

9月頃に腰の痛みを訴えていたが、頑なに病院に行くことを嫌がった。痛みがどうしようもなくなり、1月頃に病院に行った際に余命宣告を受けた。桜が散る頃まで待つかとのことだった。3月頃、祖父は腰を強打して寝たきりになった。祖父とはもうお茶を飲めなくなったが、祖母とはよくお茶を飲んでいた。

6月。病院に入院する前日に祖父は死んだ。病院嫌いの祖父らしい最後だった。

茫然自失だった祖母にお茶を淹れて話を聞いた。苦いお茶だった。

1年も経つと祖母も吹っ切れて、いつも通りの日々が戻った。やはり祖母の淹れる緑茶は美味しかった。

さらに1年後、私が家を出る日がやって来た。 前日に飲んだお茶はやはり少し苦かった。「元気でね。」「ご飯食べるんだよ。」「いつでも戻って来ていいんだからね。」祖母の言葉が暖かかった。

就職して九州にいた時は大体3ヶ月に1回ほどのペースで実家に帰り、その度にお茶をもらった。久しぶりに飲むお茶はとても美味しくて、ついつい長話をしてしまった。

福島県に異動してからは月1回ほどのペースで帰っていた。相変わらず美味しいお茶だった。 そして岩手県で暮らす今。一度もお茶を飲めていない。

通勤途中に草原に浮かぶ朝霧を見ると、ヒスイ色の湯呑みから上がる湯気越しに見た祖父母の笑顔を思い出す。

元気だといいな。早く会えるようになりたいな。そう思いながら、今日も仕事に勤しんでいる。

また会う日のために茶飲み話を探しながら。

プライバシーポリシー お問い合わせ